2012年8月1日水曜日

祖母のこと(「ついで」に祖父のことも)


もうふた月も前のことになってしまったけれど、母方の祖母がなくなった。
地元名産の桧(ひのき)笠づくりが得意な働き者の祖母だった。
5月に100歳を迎えたばかりで、私が最後に会ったのがその誕生日の日だった。
その日は意識もはっきりしていていろいろな昔話が聞けた。


この祖母には名前がふたつあった。「やち」と呼ばれることもあれば「かち子」とか呼ばれることもあった。祖母の父親が、町役場に名前を届けに行ったとき決めた名前をうっかり忘れてしまい、違う名前で登録したのだ。
100年前の日本は今と違ってずいぶんゆっくりしていたのか、どちらかに決めてしまうこともせず、人によって好きな方の名前で呼んでいたらしい。


これが少女の時分の祖母。祖母だけ切り抜いても良いがこのほうが雰囲気がわかる気がするのでそのままにしておく。

「オレは勉強はできたぞー」と誕生日にもさかんに繰り返していたけれど、
たしかに利発そうな顔をしている。私がおぼえているかぎり、ふだんの発言にかしこさを感じさせる人だった。
それでも時代が時代なら信州の山村という場所がらもあって、たいした教育をうけることもなくごく若い時分から働きに出たようだ。
最後の10年余りを暮らした老人ホームでの口癖は、
「オレばっかこんな楽してたら悪いよー」だった。働かなくてもご飯が食べられるのが
もうありがたくてありがたくてしょうがないというふうだった。この地域の老人は、男性でも女性でも自分のことを「オレ」という。

そんな祖母が出会ったのがこの籠(かご)職人の祖父である。これもやはり周りが写ったものを。

祖父の若いころの写真は見たことなくて、葬儀のときにこの集合写真を発見したのだけれど、ひと目でどれが祖父かわかった。若い頃でも、私の知っている祖父そのままだったからだ。
こんなに性格がそのまま顔に出る人はいないと思う。「愛嬌のある不良」という人だった。
私が小さいころ、近所に住んでいる祖母の家に行くと、酔っ払った祖父はいつも一升瓶を抱えながらこう言うのだ。
「あきらー。おまえ、橋の下に捨てられとったんだぞ。覚えとらんのか?」
私の顔は異常なほど母親に似ているのでそれが事実でないことは理解していたのだけれど、
幼い私はすこしいじけて、祖母の作ってくれる煮物や漬物やらの素朴なご飯でまぎらわしていた。

祖父は酒が大好きなくせにそんなに強くはなかったようだ。いつもどこか外で酒を飲んで潰れては家族が迎えに行っていた。そういうときは気が大きくなっていて、有り金を見ず知らずの人に全部あげてしまったりするのだ。町の全家庭に備え付けられたスピーカーから、「道端で酔って寝ている人がいます」という町内放送が聞こえてきて、やはりそれが祖父だったというのが数回あった気がする。
その祖父は私が中学の時に亡くなった。

この写真はその数年前のものだと思う。

わたしをいじる祖父のイメージと、美味しい味噌汁をごちそうしてくれる祖母のイメージは重ならないものなのだけれど、きっと仲はとても良かったんだと思う。ちょっとひねたふうな変わり者の祖父と、彼を貶すわけでもなく、盲信するわけでもない、絶妙な視線で支える祖母のさまがこの写真にとても良くあらわれている気がする。

100歳の誕生日の日、わたしが祖母にいちばん聞きたかったのは祖父とのことだった。祖母は躊躇することなく答えてくれた。
「鶴松さんはいい人だったよー。性根が良かった。」
-どっちが好きになったの?
「オレも惚れたし、鶴松さんも惚れたんづらよ」

かち子おばあちゃん、鶴松さんはそっちでもお酒飲んでるのかな?
あの味噌汁の作り方を習っておけば良かったよ。
もう一度、飲みたいよ。