2016年11月5日土曜日

ゆずり葉

もう二年くらい書いてなかったらしい。

わたしは5年前から子供向けの塾をやっている。そこのモットーが、「子どもたちを守りすぎない」ということなんだけれど、サイトに書いてあるその言葉に注目してくれる人がいて、複数の人から「あれが気に入った」と言われることがあった。

このあいだ、どうしてそう思うようになったのかを聞かれて、ちょっと困った。子供を守りすぎてはいけない理由はいくらでも書くことができるけれど、どうやってそういう考え方に至ったかの来歴はすぐには言えなかった。私には子供がいないので、子供を育てた経験から来たものではない。しばらく考えて思い当たったのは、以下のことだった。


小学生の時、5年生の頃だったと思うけれど、中原中也の「ゆずり葉」という詩を読んだ。
この詩は、ユズリハという植物が、新しい葉が生えてくると古い葉が場所を譲るように落ちるのにたとえて、人間の親も同じように子供に世界を譲るのだと言う。
当時の私には相当に衝撃的で、この詩のことがしばらく頭から離れなかった。
そのうち親が死んでいくということを聞かされただけでも子供の私には不快だったし、自己犠牲の精神はさっぱり理解できなかった。
でも今になれば、この詩が真実を語っていることがわかる。親はいつまでも生きられるわけではない。望んでも望まなくても、子供には世界をそのまま放り渡すことしかできないのだ。


だからその人には、このように言った。
「子供の頃、ゆずり葉という詩を読んだんです。植物の葉っぱのように、親は子供が大きくなるとすべてを子供に託して死んでいき、結局子供の成長には責任を負えないのです。子供を守るという態度はそもそも不遜なものなのです。だから、責任を持ちすぎないという態度が大事なんじゃないですかね。最初は彼らを守るとしても、結局は彼ら自身が自分で生きていけるように放っておくのが大事だと思います。この詩を読んだ当時は全然わからなかったけれど、どこか頭の隅っこにひっかかっていたんですよ。いつも頭のなかで繰り返していたら、今になって理解できたんだと思います。」



しかし、そう言ったあとで嘘だと気づいた。責任をとれないから守り過ぎはダメだ、というのではない。そんな消極的な理由では私の中の不思議な炎を説明することはできない。
私は、彼らを守るという努力そのものが無に帰すのを間近に見たいだけなのだ。
「守りすぎない」という態度こそ、彼らをもっとも高い確率で守ろうとするもっとも不遜な態度なのだ。そんな思い上がりこそ、子どもたちによって倒されなければならない。

わたしはまだゆずり葉を理解していない。

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